エッセイ

当たり前に映るもの

当たり前に映るもの

あまとう 2026/03/18

 坂の多い街に縁がある人生だ。親が転勤族のせいで色々な場所に引っ越したが、いちばん長く住んだ三重県・四日市市では、山の方に住んでいたこともあり、窓を開けるとコンビナートの景色が眼前に広がった。今住んでいる静岡県・富士宮市では流石は富士の宮と言うべきか、富士山を頂点として街がスカート状に広がっている。この街にいると、私たちの生命というものは何千年の歴史をもつ富士山の前では儚いものなのだと痛いほど痛感する。

 そして、私が一番好きな街は長崎市だ。ここは住んでいたわけではなく、高校時代の研修旅行で初めて訪れた。坂だらけの街並を潜り抜けるように走るチンチン電車が健気で可愛らしい。ここは東京のように高いだけの虚像のバベルの塔があるわけではない。坂から見下ろす街並みは、ありふれた地方都市の街だが、そこから聞こえる息遣いは静かに涙を流す人の悲しい声がどこからか聞こえてくる。

 長崎といえば、歴史的に大きく2つの苦痛から這い上がってきた。ひとつ目はキリシタンの弾圧。ふたつ目は戦時中の原爆投下だ。両方とも義務教育で習うので、少なくとも文字としては記憶している人が多いと思う。特に原爆については毎年8月にテレビで追悼の映像が流れる。広島の原爆ドームを訪れた人も多いだろう。一方で、キリシタンの弾圧については、あまり歴史的にどう重要かピンとこないかもしれない。たしかにこれは現地に行き、かつ信仰というものに興味を持った者でないと中々理解するのは難しい感覚だと思う。ここでは高校時代の研修旅行の思い出を振り返りながら、現地で受けた私の感覚をなるべく文字に書き起こしてみようと思う。

 三重県のカトリック系ミッションスクールに通っていた私たちは、研修旅行でも単なる遊びでもなく、キリスト教の勉強をしないといけないことに反感を持っていた。それもそうだろう、潜伏キリシタンと隠れキリシタンの区別もつかないような彼女らが追い求めるのは、映えスポットのような場所でキレイな写真を撮ってSNSに投稿することで、潜伏キリシタンがお祈りのために集まった巨大な岩の下なんて、これっぽちも興味がない。田舎に住んでいた私だって、土とガソリンが混じった青臭い匂いの充満する地元の土地に辟易としていたのに、なぜ旅行で別の山々に行かないといけないのか。ただただ先生たちの意向が分からず、あまり前向きな気持ちになれなかった。

 そんな中で到着した長崎市だが、着くとすぐに不思議な建物に好奇心が躍った。洋風と和風が融合した建築に、初めて訪れる中華街。そんな街を底から押し上げるように坂で満ち溢れている。下から見上げる長崎の街並みは、キリシタンの歴史や原爆の悲しい記憶を知らなくても、時代と共に生きた街と感じさせるような迫力があった。

 2日目の朝、外海(そとめ)にある枯松(かれまつ)神社に向かった。どうやら外国人宣教師を祀る数少ない神社らしい。私たちの目当ては「祈りの岩」と呼ばれる大きな岩だ。ここは潜伏キリシタンの集落として世界的に見ても特異な信仰があった場所だという。宣教師を祀る神社を作ることで、幕府には神社の氏子ということにしつつ、実際にはキリシタンであり続け、年に一回「祈りの岩」の下で夜な夜なオラショと呼ばれるお祈りの言葉を唱える生活を送っていたそうだ。

 神社自体は至って普通の神社という印象を受けた。ただ山奥にあって、たどり着くのは大変だった。肝心の祈りの岩はとてつもなく大きい。そこに人一人が入るくらいの窪みがある。当時の信者たちはそこの窪みに入り、年一度の祈りの時間にオラショを教え、継承していったという。

 自然の恵みが信仰を繋げる。ただの岩ではなく、そこに人の営みが生まれることで、自然もまた歴史の一部になる。それを見た時、胸がじんわり温まっていくのを感じた。名前も顔も知ることができないけれど、ここで確かに人の想いが受け継がれていったのだと思うと、信仰の強さという目に見えない糸に私も引っ張られる気持ちになった。

 その後、外海では有名なド・ロ神父の記念館に向かった。1879年、フランス出身のド・ロ神父は、外海の貧困を憂い長崎に来た。救助院の建設やさまざまな産業の成立に貢献したという。日本のナガサキのためと、大勢の異国出身の神父が押しかけてきた時代だ。もちろんそこには打算的な計画もあっただろう。しかし、異国の地に生涯をかけて貢献した彼のような人々もいると思うと、宗教の高潔さや使命感というものを感じざるをえない。

 そして、最も私の胸を打ったのは浦上天主堂の被爆マリア像だ。少し怖いので調べる時には注意してみてほしい。浦上天主堂は原爆投下により壊滅。そのとき奇跡的に残っていたのが、まるこげになったマリア像の頭部で、「被爆のマリア」と呼ばれている。焼け落ちた2つの真っ黒とした目。左頬のべったりとした爛れ方が苦痛によるマリア像の悲鳴を表している。全体的に剥がれ落ちた皮膚はあまりの痛々しさに目を背けたくなる。

 信仰を繋ぎ止めた先に、彼らが拝みたくてしかたなかったマリア像が、現代の兵器によってズタズタにされてしまった。これほど悲しいことはあるだろうか。信じていたものが外部によって壊されてしまう。私だったら打ちひしがれる。しかし長崎の民はそこから復興を果たし、悲しい歴史を抹消するのではなく、保存することを選んだ。どれほど大きな決断だっただろう。悲しい思い出を当時の被害者たちは忘れたかった人もいたはずだ。それでも次の世代に残すことを選んだ。

 私たちは今あるものを当たり前だと、そのように思い起こさないぐらい自然と享受してしまいがちだ。しかしどんなものにも、文化にも、歴史にも、そこで営まれた人たちがいて、その人たちが懸命に現在へと繋ぎ、それを受け取った人がなんとかして形にしたものを私たちは見ている、ということを忘れてはならない。

 眼前に広がる街並みが当たり前ではなくなった時、私たちは歴史の重みを知ることができるのだろう。