「ヘイトスピーチ解消法成立から10周年に寄せて」
2026/06/25
1 はじめに
2016年6月3日、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」、いわゆる「ヘイトスピーチ解消法」が成立した。
そこからはや10年——この10年の間にヘイトスピーチ、ひいては人種差別を巡る動きは何が変わったのか——本稿では、10年の月日が経った2026年現在の人種差別を巡る現状について概説し、これからの10年に繋げていきたい。
2 ヘイトスピーチのターゲットの変化とネットを介した排外主義の同時展開
旧来からの日本におけるヘイトスピーチの主なターゲットは在日コリアンであった。今でも在日コリアンに対するヘイトスピーチは絶えないが、現在最も深刻なヘイトスピーチといえば川口市に住むクルド人に対するヘイトスピーチであろう。クルド人だけでなく、「見た目」から外国ルーツがあると認識される人々が人種差別の攻撃のターゲットの中心となっているのが、2026年現在の日本の人種差別の実情である。実際に、「いまの排外主義は歴史的な問題意識があまり感じられない」との指摘もなされている(倉橋・高谷 2025:9)。
クルド人へのヘイトスピーチが激化したきっかけは、2023年3月から審議されはじめた難民申請中でも強制送還を可能にする改定入管法の議論である。同法の議論に対して対抗するクルド人が注目され、そして、その言動が都合の良いように切り取られたのである。同法は同年6月に成立したが、同年7月には、川口市内の病院周辺でクルド人たちが集結するトラブルが取り沙汰され、「クルド人は危険」との言説がSNS上で飛び交うようになった。
また、クルド人だけではなく、いわゆる「見た目」から外国ルーツを持つと分かる人に対するヘイトスピーチが目立つ。それの最たる例が「JICA(国際協力機構)解体」デモであろう。これは、JICAが国内4市をアフリカ各国の「ホームタウン」に認定したと発表したところ、X上などで「日本の市や町をアフリカに譲渡した」、「移民が押し寄せる」といった投稿が急速に拡大したことで同4市に抗議の電話やメールが殺到し、2025年8月28日には、JICA本部前にて「JICA解体」を求めるデモが起こる事態にまで発展したという事例である。「JICA解体」デモの背景には、それに先立つアメリカでのUSAIDの「解体」事件が存在する。JICAとUSAIDの事例は、インターネットを介して多様性や国際協調のシンボルである組織が攻撃され、それが「デモ」や「電凸」等のリアルな場で攻撃された、悪い意味での「成功例」になってしまったといえる。即ち、「ネットを介した排外主義の同時展開」というインターネットを媒介とした海外における排外主義が時間差で日本に流入するという現象が起こったのだ(宮下 2026)。
このように、ヘイトスピーチ解消法当時は、主たるターゲットは植民地時代の歴史的経緯を持つ在日コリアンだったのが、「外国ルーツを持つ」と認識されやすい人にその標的が移っているのがヘイトスピーチ解消法当時と10年後の現在との違いの一つである。
なお、その差別形態の現れ方は、ヘイトスピーチに限られない。例えば、人種、皮膚の色、国籍、民族的出自等に基づき捜査対象を選別する「レイシャルプロファイリング」の問題についても、その選別の眼差しの理由は「外国ルーツを持つ人」に見えるからという「見た目」の理由である。
3 選挙と差別ビジネス
また、2016年当時から指摘されてきたことであるが、今後の対策として急務であるのが選挙に名を借りたヘイトスピーチと差別ビジネスの問題であろう。
直近の選挙でいうと、2025年7月の参議院選挙においては,「日本人ファースト」という言説が急激に広まり、かつてないほどに「外国人問題」が注目されることとなった。
「日本人ファースト」という言説はそれだけをとってみればヘイトスピーチ解消法の中で規定される「ヘイトスピーチ」には当たらないかもしれない。しかしながら、このような言説はそれが犬笛となり,差別を煽動する効果は絶大である。そして、選挙期間にとどまらず,参議院選挙後においても悪い意味で「定着」してしまったのではないかと考えられる。選挙期間におけるデマに対する規制は(特定の候補者に向けられたものでない限り),存在せず,野放し状態であるにもかかわらずその悪影響は懸念される。法規制を含めた対応策が急務である。
ヘイトスピーチを行う人間は、「差別を積極的に行いたい」という確信犯的な差別主義者も一定程度いる。しかし、近年さらに対応が厄介になっているのが「差別はお金になる」という理由で差別を行う「差別ビジネス」が確立しつつある点である。実際に、報道によれば「嫌中」動画の広告収入を生み出していた男性は、「収益は『多くて月約60万円で、安定していた』と話」していたという。「差別がお金になる」という仕組みをなくす新たな「仕組み」を設定しなければ差別ビジネスはなくならない。このような差別が収益化される仕組みをなくすためには法制度の設計だけではなく、企業側の自主的取り組みも必須であろう。
4 求められる法制度の在り方
ヘイトスピーチ解消法は、初めて「ヘイトスピーチを許さない」という理念を謳った重要な法律であるが、禁止条項がない、ヘイトスピーチ撤廃のための基本計画や具体的施策を策定する義務がない、第三者機関の設置義務がない、インターネット上のヘイトスピーチ対策が追いついていないこと等様々な問題が孕んでいる。10年経った今、様々な課題は明白になっている。
最も根本的な問題は、ヘイトスピーチ解消法が人種差別の中でも「ヘイトスピーチ」という差別の一形態に終始していることであり、根本的には人種差別を禁止する包括的な立法、もっといえばあらゆる差別を禁止する包括的な差別禁止法の制定が求められる。
5 終わりに
ヘイトスピーチ解消法施行から10年が経ち、ターゲット層の変化や排外主義を下支えする「日本人ファースト」という言説、そして「差別でお金を稼ぐ」という差別ビジネスの構造問題等、2016年当時は想定していなかった様々な問題が2026年現在に生じている。しかしながら、法律は改正されることなく10年の月日が流れてしまった。
率直にいえば、筆者は2016年当時、次の10年後の未来がここまで外国人に対して不寛容であり、ここまで排外主義が注目されてしまうことになるとは思ってもいなかった。
次の10年後に私たちは「どんな社会で生きていきたいか」が問われる。10年後の未来は今よりもっと生きやすい社会になることを願うばかりである。
参考文献
・倉橋耕平・高谷,2025,「序列化する社会に抗して——『歴史修正主義』と『反移民』を貫くものを問う」『現代思想』53(15):8-17.
・三浦尚子,2025,「ヘイトスケープの増殖と『川口のクルド人』の現在地」『現代思想』53(15):53-64。
・宮下萌,2026,「排外主義の時代におけるネット上の差別——それにどう抗するか——」『架橋』54:19-28.
参照
¹2023年から2025年までの時系列によるクルド人にまつわる出来事の整理については、三浦(2025)参照。
²「JICA解体デモ」の詳細については、(宮下 2026)参照。
³朝日新聞「あおるほど稼げる、という現実 あふれた称賛コメント『社会を分断させたかも』 『嫌中』動画」(2026年5月8日)(2026年6月17日取得,
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16458520.html?pn=4&unlock=1#continuehere).