---私の戦後80年宣言ーーー
2025/07/12
「戦後80年」---筆者は、平成初期の生まれである。「戦後〇〇年」、この言葉からは、かつて「日本が戦争をしていた」という事実を知ることはできたが、当事者としての実感はあまりないというのが正直な想いだ。毎年、夏を迎える度、戦後〇〇年特集の番組や記事、戦争を扱った映画、ドラマをなどに触れる機会はこれまでにもあったし、グロテスクな映像などを観ることでいかに戦争が過酷で人権を侵害するものであったかを自分なりに体感することもあった。亡くなった父方の祖父が、当時の満州国に出兵していたことで、戦地での生々しい話を聞く機会にも恵まれたことは幸運だったと感じる。
「戦後80年」という言い方については、立場によっては「戦勝80年」、「敗戦80年」と表現することもできる。80年という節目の年は、国籍、立場、イデオロギーによって捉え方が異なるものだ。
「戦後80年」問題を自分なりに考えている中、7月7日、国政の中心である国会議事堂の前で、それぞれの戦後80年への想いを語る場が開催されることを知り、足を運ぶことにした。
当日、まだまだ気温は30度を超える午後6時頃、筆者は地下鉄永田町駅を下車し、地上へと続く長い階段をあがって、生暖かい風を感じながら国会前へと向かった。
到着すると、平日の夕方にも関わらず、すでに100名程の老若男女の姿があった。主催の「わたしの戦後80年リレートーク集会」実行委員の方々の進行のもと、様々な想いを抱えている参加者によるリレートークが始まった。
「日本国籍以外の皆さんに、アジアの国籍の皆さんに、戦争を始めた日本人として、祖父たちの侵略と蛮行を心からお詫び申しあげる」---PTSDの会の黒井秋夫さんは過去の日本軍によるアジア諸国への侵略について謝罪し、被害者への追悼として参加者による10秒間の黙祷が行われた。
「『戦後』という言葉は日本人しか使わない。日本人が勝手に使って独占している言葉だ。アジアの人々にとってはちっとも戦後ではない」、「台湾が抱えている問題の本質は国際社会から台湾の人々の意思が無視されていることだ。台湾の意思を封じるのではなく、閉ざされた台湾人の平和への願いを解き放つものであってほしい。そこで初めて「私たちの戦後」が訪れるのだと思う」---続いて、台湾出身の張彩薇さんのメッセージが代読された。
「戦後80年とは誰の視点からみた80年なのか、日本が負けてからの80年に過ぎない、加害者としての視点がごっそり抜けた80年だ」、「日本は現在進行形で間違え続けている国だ。確かに人は色々と間違えることがある。だからこそ間違えたものは正すことで認識を新たにして様々な差別に戦っていきたい」---音楽家のアズィーズ・アルカマルさんの訴えだ。
「石破首相には公式な形で加害の歴史と向き合った首相談話を発表してもらいたい。現在の参院選では『日本人ファースト』という言葉が平然と主張されている。そんな今だからこそ日本社会が過去の加害の歴史と向き合い、他民族・他文化共生の社会を目指していくことが重要だ」と主催団体関係者がリレートークを締めくくった。
日本人としては耳が痛い、しかし一人一人が受け止め考えなければならない課題について、様々な立場の人々が、国会を背にして汗を流しながら懸命に訴え続けていた。
7月7日は「七夕の日」として広く知られている。我々日本人の多くは意識していないが、88年前の1937年7月7日は、日本の満州への侵略行為が全面戦争に発展するきっかけになった「盧溝橋事件」が起きた日でもある。
当時を知る人々も日に日に少なくなっている。当事者の声を聞き、次の世代にバトンをつなげることが私たち現役世代の役目ではないだろうか。
一人一人の日本人が、自分なりの「戦後」というものを探していかなくてはいけないのではないかと考えた。