コラム私感雑感

80’s 洋楽MVに描かれた「日本」:その1 オリエンタリズム

80’s 洋楽MVに描かれた「日本」:その1 オリエンタリズム

ブレイクコア・クッシュ 2025/09/05

この連載では、1980年代の洋楽ミュージックビデオ(以下「MV」)に描かれた「日本」について、その表象のされ方を紹介・解説していきます。

対象とするのは、主にアメリカやイギリスなど、いわゆる「西洋」のポップミュージック。彼らが映像という手段を使って、どのように「日本」や「東洋」を表象していたのか。その想像の内実を追っていくことで、ポップカルチャーにおける文化の描写の仕方、そしてそこに含まれている無意識の前提を明らかにすることが、この連載の目的です。

というのも、「洋楽」の生まれるところ、すなわち西ヨーロッパやアメリカといった地域から見れば、日本という国は、文化も言語も習俗も大きく異なる「異国」です。

だからこそ、ある種のエキゾチックな関心を引き起こします。遠く離れた土地、何を考えているのかわからない人々、未知の習俗や奇妙な衣装。そうした要素は、映像や音楽の中で「魅力的な異物」として用いられることが多々あります。けれども、その魅力はしばしば、誤解と偏見によって構成されています。

こうした現象をめぐっては、すでに多くの批評家が論じてきました。特に有名なのが、エドワード・W・サイードによって提起された「オリエンタリズム」の概念です。

オリエンタリズムとは、西洋が東洋を勝手なイメージによって理解し、描写しようとする傾向のこと。実際の東洋を知ろうとするのではなく、自分たちの想像の中で作り出した「東洋らしさ」に東洋を押し込めてしまう。その際、そこには必ずと言っていいほど、西洋が自らを「理性的で近代的な文明」として位置づけ、対する東洋を「神秘的で野蛮なもの」として見る、という力の非対称性が介在します。

そのようなまなざしが、実はポップカルチャーの中にも数多く潜んでいるのです。

まずはその最も露骨な例として、アメリカのヘヴィメタルバンド、Mötley Crüeの1984年の楽曲 “Too Young To Fall In Love” のMVを取り上げてみましょう。現代の私たちから見ると、思わず笑ってしまうほど典型的な「オリエンタルな世界観」が展開されています。

このMVの舞台は、おそらく中国の路地裏と思われる場所です(MV中の看板などにアジア圏では使われる文字は出てこないため断定できない)。しかし、そこには明らかに日本的な要素――たとえば、侍のような格好をした人物など――が混ざり込んでいます。つまり、「中国」と「日本」を区別せず、「アジア」=「東洋」としてひとくくりにしてしまっているわけです。このような雑な混合は、1980年代当時のアメリカにおけるアジア理解の水準を物語っていると言えるでしょう。

80’s 洋楽MVに描かれた「日本」:その1 オリエンタリズム
「現地人」が海兵隊に強引にナンパされるシーンからMVは始まる

MVは、路地裏を舞台にしたアクション仕立ての物語として展開します。物語は、薄暗い通りに一人佇む若い女性の姿から始まります。彼女は男に連れられ、エロティックな儀式(?)に参加します。その間、一人の少年が現れ、バンドメンバーを女性の元へ導きます。

80’s 洋楽MVに描かれた「日本」:その1 オリエンタリズム
儀式ではなくて風呂かもしれない

やがてバンドは登場し、周囲を支配する敵勢力、忍者風のガードたちと激しい戦闘を繰り広げます。演奏とアクションが交差する中、バンドは女性を「救出」しようとしますが、物語はここで意外な展開を見せます。戦いの末に明らかになるのは、女性が実は自ら望んでその支配者のもとに身を置いていたという事実です。つまり、彼女は囚われていたのではなく、自ら進んでその関係に従属していたのです。

この真実に直面したバンドは、困惑と落胆を隠せないまま現場を後にします。その途中、ドラマーのTommy Leeが厨房に立ち寄り、そこにあった料理を味見しようとするも、思わず吐き出してしまうという、ややコミカルな(?)シーンが挿入され、映像に皮肉混じりの軽さを与えます。最終的にバンドはその場を去り、物語はやや投げやりな雰囲気で締めくくられます。

このMVは、一見すると勧善懲悪のアクション作品のようでありながら、恋をするには若すぎる(Too Young To Fall In Love)すなわち「若すぎて本当の愛を理解できない」という曲の主題を、象徴的に描いています。ここで描かれている「東洋」は、まさに神秘的で非合理的、野蛮で危険、しかしどこか魅惑的という、先ほど述べた「オリエンタリズム」の典型例を体現したものです。

さて、こうした描写のどこが問題なのでしょうか。

まず第一に、こうした映像の中の「東洋」は現実とはかけ離れているという点。そして第二に、それが単なる誤解にとどまらず、西洋が自らの優位性を暗黙のうちに再確認するための構造になっているという点です。

理性的で科学的な西洋 vs. 野蛮で感情的な東洋、能動的に行動する西洋人 vs. 受動的に支配される東洋人、あるいは男らしい西洋 vs. 女々しい東洋、行動的で成熟した西洋人 vs. 自ら従属してしまう若い東洋人――こうした二項対立の構図の中で、常に「優れた側」に自らを置き、「劣った側」に東洋を配置するという視線がそこにはあります。

この視線は、単なる映像表現の話ではありません。

それは歴史的に、植民地主義や帝国主義的な支配と密接に結びついています。西洋が東洋を「未開な地」として描くことで、「この地を我々が文明化してやる」という大義名分を作る。それによって、実際の植民地支配や軍事介入を正当化してきたという歴史があるのです。

しかし、このMVは単にオリエンタリズムとして一方的に断罪できる作品ではありません。むしろ、ある種の批評的な(kritisch)視点を内包していると読むこともできます。というのも、このMVはアメリカ映画にしばしば見られる「白人救世主(white savior)もの」――すなわち、白人が非白人を「救う」ことで物語が展開するジャンル――のパロディ的構造を備えているからです。

物語の中では、バンド(白人の男性たち)が東洋の女性を助け出そうと乗り込んでくるわけですが、最終的に彼女は「救われるべき存在」ではなかったことが明らかになります。つまり、彼女は囚われていたのではなく、自ら進んでその関係性を選んでいたのです。このどんでん返しによって、「白人男性が東洋の女性を助ける」という構図自体が破綻し、結果として、救う側だったはずの男性たちが敗北する、という皮肉な展開が浮かび上がります。

また、「恋をするには若すぎる」のは女性ではなく、むしろ自らの妄想に酔って突き進んだバンド側の男性たちの方であった――という読みも可能でしょう。そういう意味で、この作品はオリエンタリズム的な表象を演じながらも、その枠組みの虚構性や自己矛盾を暴き出すような露悪的な演出を取り入れていると言えるかもしれません。

とはいえ、そうした皮肉や逆説を含んでいるとしても、このMVが結果的にオリエンタリズム的な図像を再生産していることに変わりはありません。中国と日本の文化を無自覚に混同し、東洋的な世界を「謎めいていて危険でエロティック」な空間として描き出すその視線には、無意識の偏見と想像の暴力が色濃く滲んでいます。

もちろん、すべてのMVがここまで露骨なわけではありません。

今回の Mötley Crüe のMVは、あくまで極端な例。これから紹介していくMVの中には、もう少し控えめで、あるいはむしろ東洋へのリスペクトが込められているように見えるものもあります。しかし、どれもどこかで「西洋から東洋をどう見るか」というまなざしが含まれています。今回の Mötley Crüe のMVは、あくまで極端な例。これから紹介していくMVの中には、もう少し控えめで、あるいはむしろ東洋へのリスペクトが込められているように見えるものもあります。しかし、どれもどこかで「西洋から東洋をどう見るか」というまなざしが含まれています。

この連載では、そうしたまなざしのあり方を、皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

その際、ただ怒ったり眉をひそめたりするだけではなく、ときには笑い飛ばしながら、そして同時に、自分の中にもそのような見方が内在していないかを振り返るきっかけになればと願っています。

ポップカルチャーに潜む「偏見」は、実は私たちの日常の中にもひそんでいるのかもしれません。