参加するデモ、しないデモ
参加するデモ、しないデモ
2026/05/15
2025年における参院選での参政党の躍進以後、いわゆる「外国人問題」はもっとも重要な政治的課題のひとつとして注目を集め続けている。もちろん筆者は、「外国人問題」なるものが素朴に実在しているともかんがえていないし、反対に、「外国人問題」などといった疑似問題をつくりだしている日本人の方が問題なのだというようにもかんがえない。いずれにせよ、———それを「外国人問題」というにせよ、「日本人問題」なのだと切り返すにせよ———そうした社会問題がひとびとにとって、身近なものとしてあるということをいいたいだけだ。あるいは、そうした内容をいずれ論じることになるかもしれないが。
さて、しかし、政治的関心の高い多くの読者が知るように「外国人問題」なるものは突如として降って湧いた問題ではない。ネット右派の言説はつねに、朝鮮人および中国人差別を中心に発展してきたし、そうしたネット右派勢力が現実的にある程度の存在感をみせたこともあった(在特会!)。たしかに、いまや「外国人問題」の中心は朝鮮人にも中国人にもない。そうしたモードの変化もひとつの社会現象として解明されるべき事柄であろう。しかしながら、今回はむしろ、問題の「変わらなさ」の方を論じてみよう。しかもそれは「外国人問題」の「変わらなさ」ではない。社会運動における方法論の本質的な「変わらなさ」だ。
表立っていいたいことではないが、私はデモがあまり好きではない。はっきりいえば、嫌いだ。デモに参加している人間はバカだとか、国を売るスパイだとか、そういうことをいいたいわけではない。通行の迷惑だとか、結局は自己満足だとかそういうことをいいたいわけでもない。もっと素朴に感情的な問題なのだ。デモは私にとって居心地の悪い場所だ。かかる音楽は趣味でないしシュプレヒコールの語呂は悪い。いつもそういうことに気をとられたまま行進してきた。それでも私はあの日、入管法の改正に反対するデモと集会とに参加した。いったい、なぜ?
2023年の5月21日、入管法の改正に反対する有志がデモと集会とをひらいた。参加者は主催者発表で7000人。デモと集会の目的は、もちろん、入管法の改悪に抗することだ。改正案は、難民申請中(申請が三回目以降の場合)の強制送還を認めるほか、退去命令に従わない者にたいする刑事罰を新設するなどの内容であった。そもそも難民認定率が著しく低いことや技能実習制度などの異常な労働制度をかんがえれば、日本の外国人政策が優良なものとは口が裂けてもいいがたい。ともあれ、入管法の改正が事実上の改悪であることに違いはなかろう。しかしそれは、ここでは論点ではない。むしろ、ここで問題にしたいのは、私たちが「問題をいかにして問題化するのか」ということの方だ。
さて、一般的な話をしよう。なにごとにも、モチベーションが必要だ。自己啓発っぽくいえばインセンティブ。社会学っぽくいえば動機づけ。いずれにせよ、なにかことを為すにはそういう装置がいる。社会運動もその例外ではない。
社会運動の強度がもっとも高くなるのは、おそらく、参加へのモチベーションが当事者意識、それも被害者としての当事者意識に支えられている場合だろう。しかし、どうであろう。入管法の改正に反対した7000人のうち、被害者的当事者性をもっていたひとびとがどれだけいるだろうか。そのようにかんがえると、また別のモチベーションが要求される。被害者的当事者性につづいて、強度の高いモチベーションはおそらく、加害者的当事者性だ。
社会は複雑だ。だから社会問題の解決は刑事事件の解決のようにはいかない。というのも、社会問題における加害者は基本的に、「構造的」な加害者性をもつからだ。もちろん、ある刑事事件が社会問題化することもある。そうした場合には、加害者は明瞭であろう。しかし、個別の事件が社会問題化している以上、そこには社会構造の問題が深く関わっているのも確かなことだ。たとえば、女性差別が問題化されるとき、男性はすべて「構造的」な加害者となる。あるいは、障碍者差別が問題化される場合には、健常者はすべて「構造的」な加害者だ。もちろん、外国人差別が問題化される場合も、日本人はすべて「構造的」な加害者として扱いうる。
しかし、おおきな問題がある。「構造的」な加害者にはそもそも当事者意識が薄いということだ。いや、それは被害者の場合も同じである。たとえば、貧困。日本では社会的指標において貧困の当事者であるひとびとの当事者意識が一般に低いといわれている。であればこそ、「構造的」な加害者の当事者意識が希薄であるのも頷けよう。ともかく、社会運動への動員には、課題がある。すなわち、「当事者意識をどのようにして掘り起こすか」という課題である。
だから、社会運動への動員を目的とする言説は、ふたつの文法をもつことになる。ひとつは、「あなたは被害者なのです」という救済的文法。もうひとつは、「あなたは加害者なのです」という告発的文法だ。さて、入管法改正。ここにも、文法的な例外はない。むしろ、そうした文法の極値にこそ、入管法改正に反対するための感情的拠点があった。沈黙は加担だ。いや、私たちの「存在」ですらいまや加担であるのだ。
掘り起こされた加害者意識が私を動員する。そのとき、社会運動は週末のサウナよりも爽快なものになる。熱気に耐え忍ぶなかで全身から老廃物が滲出するように、私は懺悔し、懺悔が私の加害性を滲出する。そして、澄みきった冷水のなかに私は生まれ変わる。その小さな生まれ変わりが、私の明日を支えているのだ。
社会運動はそれから、果てしなく遠いものとなった。私は社会運動を好まない。そうした感情に比較的素直になってから、それをとらえる視線が安定してきた。走りながら絵は描きにくいし、絵を描きながらは走りにくい。それだけのことではある。しかし、社会運動に参加するでも、しないでも、社会を変革するその道は、万人にたいして開かれているはずだと、そうかたく信じている。
いや、あるいは、私はあの日、加害者として動員されたのではないのかもしれない。私だけではない。あのとき、あの場所にいたひとびとのうち、どれだけが加害者の薄汚い自浄欲望に駆動されられていたのだろうか。ばかばかしい。進歩しないのは、進歩派の政治家とインテリばかりである。
ひとびとのこころに訴えたのはたった一本のヴィジュアルな刺激に満ちた動画である。加害もへったくれもあるまい。そこにあったのは、もっと原始的な共感にほかならない。
ヴィジュアルな力をもった社会問題は長らく日本の運動シーンに不在であった。安倍政権も小泉政権も、すくなくとも目にみえるかたちで弱者をなぶったりはしなかったし、壮絶な性暴力もその全貌が目に見えるかたちで配信されることはありえない。社会における構造的な暴力は、めったに自己を明るみには投げ出さないのだ。だからこそ、2020年を前後する一時期においてのみ、そうした運動に可能性があった。ジョージ・フロイドの死への過程が拡散されたことが、ひとつの道を開いたように、ウィシュマ・サンダマリの死と、それにつづいて公開されたクルド人男性への暴力動画が、私たちの心情を激しく揺さぶった。
しかし、だ。そうしたメディアのヴィジュアルな力に可能性があるとかんがえてはならない。生活のすべてがアテンション・エコノミーに飲み込まれた私たちにはもはや、ガザのこどもたちの悲痛な叫びも、暗い地下鉄のなかで息を潜めるウクライナのひとびとの顔も、共感的な力を持つまい。死体は私たちの生活にあふれすぎている。そしてなにより、政治の言葉を流暢に語る私たちこそが、そのメディアの遺産の欠片をも、食い潰してきたのだ。動画も画像も、いまや、ひとつの倫理の表現手段にほかならない。私たちはいまやリポストによって告発する。「沈黙は加担だ」という言葉を添えて。
しかし、そうした雄弁は沈黙に優越するだろうか。倫理的には優越しよう。しかし、私はそういう倫理を信頼しない。時代はまわっている。倫理のスターリン像が建てられるまで、そう遠くない。それから逃れたくあるのなら、方法はひとつ、不安の政治学から卒業することだ。あるべき社会の姿は、不安ではなく、意志と情熱とが描き出すものだろう。