パレスチナ・ガザ情勢を読み解くⅠ
千葉大学教授(中東現代史研究) 栗田禎子さんインタビュー
2024/09/25
-明日の日本を映す鏡としての占領国家イスラエル-
パレスチナ・ガザをめぐる危機的状況が日々深刻さを増している。アメリカの中東最大の同盟国イスラエルは明日の日本だと、栗田氏は警鐘を鳴らす。
占領者と被占領者という「非対称な関係」
―2023年10月7日のハマスによる奇襲攻撃は世界を震撼させました。その後のイスラエルのガザ攻撃には批判が高まっていますが、事態の背景について話を伺いたいと思います。
10月に今回の危機が始まって以来、5カ月目に入りました。この間ガザでの死者は3万人を超え、その7割近くは子どもと女性とされます。コミュニティー全体を根絶やしにするような無差別攻撃が日々起きているのが現状です。誰が見ても明らかな国際法および国際人道法違反、集団殺害(ジェノサイド)とも言える状況が生じていることをまず確認する必要があります。
重要なのは、今回の事態はマスコミ等では「ハマス・イスラエル戦争」とか「イスラエル・パレスチナ紛争」といったように、対等な2つの勢力間の紛争であるかのように描かれがちなのですが、両者は決して対等な関係ではないということです。イスラエルという占領者が、占領下のパレスチナ民衆を攻撃しているのであり、対等な国家間の紛争ではありません。占領者が被占領者に対して行っている一方的な殺戮だということを認識することが重要です。
今回の事態の直接のきっかけは10月7日です。しかし、ではなぜこのような衝撃的な作戦が実行されたかというと、2007年以降16年間にわたって、ガザがイスラエルによる厳しい隔離・封鎖政策の下に置かれ、住民が困窮していたという要因があります。ガザは、世界最大の「天井なき監獄」と呼ばれています。イスラエルは住民の自由な行き来も、水、燃料、電気等の供給さえも厳しく制限し、住民は、貧困ラインギリギリの生活を強いられてきました。16年間にわたる封鎖という現実を無視して「10月7日」から語り始めてはバランスを欠くことになります。さらに遡れば、そもそもガザおよびヨルダン川西岸という地域は、1967年の第三次中東戦争以来、約半世紀にわたりイスラエルが不法に占領下に置いている地域であるわけです。
ハマスのいわゆる〃テロ〃攻撃についても、この非対称な関係に着目すると、違う視点で捉えることができます。イスラエルはガザ侵攻を「自衛権」の行使として正当化していますが、自衛権は国家による攻撃を受けたときに発生します。占領者が占領下の民衆に抵抗されたからといって発動できるものではありません。パレスチナ人による抵抗は、第二次大戦中ナチスに占領されたパリの民衆によるレジスタンスのようなものです。国際法上、占領者に対して現地の民衆が抵抗することは当然の権利として認められています。もちろんその攻撃の過程で民間人に犠牲が出た場合は国際人道法上の問題が出てきますが、基本的には、パレスチナ人には民族解放闘争、レジスタンの権利があること、イスラエルには占領地住民に対する「自衛権」はないということは国際法上通説と言えます。
―でも、ハマスはなぜこのタイミングで作戦を実行に移したのでしょうか?
昨年は1993年の「オスロ合意」からちょうど30年だったわけですが、振り返るとこの30年間を通じてパレスチナをめぐる状況が悪化し、パレスチナ人が見捨てられ、追い詰められてきたことに気づかされます。イスラエルは冷戦直後のオスロ合意当時は、パレスチナ問題を平和的に解決しないと周辺アラブ諸国と関係改善できないと考えていたと思われます。しかし、その後のアメリカの中東政策の展開の結果、イスラエルはパレスチナ人の権利を無視しても大丈夫と感じるようになったのではないでしょうか。
アメリカは、2001年の9・11以降、「テロとのたたかい」を名目に、アフガン戦争やイラク戦争など、中東に対する一連の戦争に乗り出しました。さらにトランプ政権下では露骨な親イスラエル政策がとられ、エルサレムをイスラエルの首都と認めて米大使館を移転したり、第三次中東戦争以降イスラエルが占領し続けているシリアのゴラン高原に対するイスラエルの「主権」を認めたりもしました。そしてここ数年はアメリカの後押しでバハレーンやモロッコ、スーダン等のアラブ諸国もイスラエルとの関係を改善するに至っています。サウジアラビアとの関係正常化も間近と言われていました。アメリカの圧力の結果、アラブ諸国がパレスチナ問題の解決と引き換えでなくてもイスラエルとの関係正常化に踏み切るという状況が広がり始めていたわけです。
オスロ合意当時約束されたかに見えた、パレスチナ人の民族自決権の実現、独立国家の建設という課題が完全に棚上げにされたまま、周辺アラブ諸国もイスラエルに接近し、パレスチナ問題が忘れ去られていくことへの異議申し立て、これも「10・7」の要因だったのではないかと指摘されています。
―オスロ合意が形骸化し、ガザが「天井なき監獄」の状況に置かれてしまったのはなぜなのでしょうか?合意は、パレスチナ人の暫定自治を認めたはずでしたが……。
簡単に歴史を振り返ると、先ほど述べたようにガザとヨルダン川西岸は1967年の第三次中東戦争以来イスラエルが占領下に置き続けている地域です。明らかな国際法違反で、国連は占領地からの撤退をたびたび求めていますが、イスラエルは無視し続けています。
変化が生じるかに見えたのは1993年にオスロ合意が結ばれ、いわゆる「中東和平プロセス」が開始されたときでした。当面はガザ地区とヨルダン川西岸での暫定的「自治」という形でスタートしつつ、難民の帰還や、エルサレムの地位、そしてパレスチナ人の民族自決権の実現、独立国家建設のあり方も話し合っていこう、ということで合意が成ったのです。
しかし「中東和平プロセス」は、実際はイスラエルとその背後にいるアメリカによって形骸化され、パレスチナ独立国家の建設という課題は棚上げにされました。一方でイスラエルによる占領地への入植地建設が特にヨルダン川西岸で着々と進み、結果として現在西岸は「穴あきチーズ」のようなありさまで、いったい将来どこにパレスチナ国家を建設できるのかという状態になっています。また西岸では2002年以来、「テロリストの侵入を防ぐ」との名目で、「分離壁」の建設も進みました。
他方、ガザ地区については、イスラエルは2005年に軍と入植者をいったん撤収したのですが、それでガザの住民が自由になったわけではありません。ガザに対してイスラエルは地区全体を厳しい封鎖下に置き、住民の不満が爆発しそうになると、「治安」名目で大規模空爆、場合によっては地上侵攻を行なう(2008~2009年、2014年)、という手法をとってきました。イスラエルの入植者がいたら、そのような攻撃はできないわけですから、ある意味では大規模攻撃を定期的に行なうことを見越して、予め入植者は撤収させていたのではないかとも言われています。このように西岸では着々と入植地を拡大する一方、ガザについては封鎖下に置き、定期的に軍事攻撃を加えるというやり方をしてきましたが、いずれにしても国際法上の「占領」状態が継続していると言えます。(続く)
栗田 禎子(くりた よしこ)
千葉大学文学部教授。専門は中東現代史。
元・日本中東学会会長。著書に『中東革命のゆくえ-現代史のなかの中東・世界・日本』、共編著に『中東と日本の針路-「安保法制」がもたらすもの』(いずれも大月書店など)。