80’s 洋楽MVに描かれた「日本」:その4 「それっぽさ」の美学
2025/11/10

みなさんは、最近、アメリカのポップスター、サブリナ・カーペンターのテレビパフォーマンスが「炎上」したのをご存知でしょうか。畳と障子に囲まれた和風のセット。その中で、サブリナ本人とバックダンサーたちは空手(?)風の衣装をまとい、照明は暖色で、まるで古風な日本家屋を思わせる演出です。一見すると、日本文化へのオマージュのようにも見えるそのステージ。しかしSNS上では批判が噴出しました。問題とされたのは、畳の上に靴を履いたまま上がっていたこと――ただそれだけです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c9393ca167dddae922c2dc6f6da9f876421bf344
では、この「たったそれだけ」はなぜこれほど問題になったのでしょうか。単純に「作法を知らない」「文化リスペクトが足りない」ということだけではありません。ここには、異文化を引用することの難しさ――そして「それっぽさ」をめぐる美学の問題が潜んでいます。
畳や障子、着物――これらはすべて、「日本らしさ」を象徴するイメージの断片=記号です。映像やデザインの文脈では、こうした記号を自由に組み合わせて「日本っぽい」世界を作ることができます。現代では、このような文脈から切り離された引用が日常的に行われているでしょう。
しかし、どれほど記号として使われても、イメージには常に元の文脈を呼び起こす力があります。畳を見れば、その上では靴を脱ぐという日本的な生活作法が自然に想起される。だからこそ、畳の上に靴で上がるという行為は、単なる演出上の「不注意」ではなく、日本文化への微妙な違和感や侮りとして感じられてしまうのです。
この違和感は、何も日本イメージに限りません。たとえば、教会を舞台にした映像で宗教儀式を軽く扱ったり、アフリカの部族文化を奇抜な装飾品のように使ったりするケースにも同じ構造が見られます。引用は自由ですが、その文脈の持つ「雰囲気」つまり「それっぽさ」をどこまで保存できるかが、リスペクトと消費の分かれ目になるでしょう。言い換えれば、「それっぽさ」とは単なる外見の模倣ではなく、その背後にある感覚や規律までを含んだ「総体的なリアリティ」なのです。
この「それっぽさ」の問題を考えるうえで、今回はオーストラリアのロックバンドINXSの二つのミュージック・ビデオ(以下「MV」)を取り上げます。どちらも1984年に制作されたもので、日本を舞台にした演出が印象的な作品です。INXSの日本撮影シリーズは、80年代洋楽の中でも稀に見る「誠実な引用」の好例として注目に値します。
まず一つ目は、「I Send a Message」(1984年)。
このMVは東京・護国寺で撮影されたとされ、寺院の荘厳な風景や僧侶の姿、仏像などが、バンドの持ち込む近代的な音楽機材と絶妙に対照されています。

映像のトーンは神秘的でありながらも、どこか穏やか。もちろん寺の内部では、メンバーたちはちゃんと靴を脱いでいます。これは「日本っぽさ」を単なるエキゾチックな装飾としてではなく、空間の秩序や静けさといった「感覚」として再現している好例です。


もちろん、細かく見れば気になる点もあります。たとえば、和装の女性とブリキの人形が戯れるシーンには、どこか「自然=日本」「文明=西洋」といった、旧来のオリエンタリズム的な構図を思わせる瞬間があります。ただし、これはあくまで軽微な演出上の比喩にとどまり、映像全体としては、日本文化を侮るような視線は感じられません。むしろ、異なる文化が静かに共存する空気感を作り出しており、80年代洋楽MVの中ではきわめて上質な日本イメージの引用と言えるでしょう。
次に紹介するのは、「Original Sin」(1984年)。


こちらは東京・晴海埠頭で撮影され、INXSのメンバーが夜の港を背景に演奏するシーンと、日本の「デコトラ」や屋台が並ぶ場面が交錯します。ここで描かれるのは、伝統的なもの(屋台)と、近未来的なもの(デコトラ)の融合した80年代当時の都市としての日本です。
興味深いのは、INXSがこれらの日本イメージを奇抜なものとして扱うのではなく、ロックバンド自身の世界観と共鳴させている点です。実際、舞台となる埠頭にメンバーたちがバイクで向かうシーンからMVは始まるのです。つまり、日本のイメージが舞台装置ではなく、「音楽の延長」として機能しており、サウンドと映像の統合の中に、日本的記号が自然に溶け込んでいるのです。彼らにとって日本は、西洋の対極にある“異質なもの”ではなく、同じ現代性の中に生きるもう一つの都市文化なのです。
サブリナ・カーペンターのパフォーマンスが批判を浴び、INXSの映像が今なお好意的に受け止められる理由――それは単に「靴を脱いだかどうか」の問題ではありません。
そこには、異文化をどう理解しようとしたか、あるいはどの程度まで本気で関わろうとしたかという、誠実さの差があるのです。
グローバリズムが全面化する現代では、他文化のモチーフを引用すること自体は避けられません。むしろ、文化の混交こそがポップカルチャーの本質です。しかし、その引用が成立するためには、「それっぽさ」――つまり、文化の文脈や感覚を尊重する想像力――を失ってはならない。もちろん前回のCulture Clubのような特殊な例もあるのですが。
INXSのように、引用の内側にリスペクトを保ちながら異文化を映像に取り込むこと。それこそが、グローバルな時代における「異文化イメージ」との健全な向き合い方なのかもしれません。